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「宗教心」

  • kakiholoholo
  • 2023年1月9日
  • 読了時間: 4分

私たちは、もともと、本来的に、立ち上がる力、自由で、何ものにも執われない心、自立した心、静かな心、認められても認められなくても変わらない心、不安に左右されずに現実にいることが出来る心、最善の答えを導く智慧、ドロドロで重たくなっていても、それをも包み込む深さや広さを以て、清らかなままで変わらない心を持っている。


それを「宗教心」という。「宗教心」は、人間の価値観とは違って、人間の価値観を破って、それをも受け止め、包み込む心だ。それを、信仰心の「信」、信心の「信」、本願の「願」、念仏の「念」という。もともと、誰もが、持っている本能的な力だ。


宗教心は、「感動する心」でもあり、「目覚める心」でもある。「ひびく心」と言っても良い。


誰もが、もともと、等しく持っているので、仲介人は必要でない。


それに気が付けば、誰もが、「目覚めた人」となり、「覚者」となる。「佛陀」となる。


仏教、本来は、そういうものだ。誰もが、等しく、佛陀になれるので、仲介人も、献金も要らない。能力も関係が無い。特別な教えも無い。特別な修行もしなくても良い。我慢して長時間座らなくても良いし、滝に打たれなくても良い。


ふと、花を見て、花に、自分の考えが吸い取られて、一つとなり、自分がひっくり返って、吹っ飛んで、底が抜け、山と一つになり、月と一つになり、いろんなものと一つになり、違いのない大きな世界に受け止められる。それに気が付き、目覚めたことを「見性」「悟り」という。


釈尊は、明けの明星を見て、それに気が付いた。日蓮は、太陽が昇るのを見て、それに気が付いた。それは特殊な能力があったのではなく、誰もが、等しく、その能力を持っている。気が付けば、誰もが、佛陀で、誰もが日蓮と同じだ。仲介役は要らない。仲介業者は中抜きをしてはいけない。というか、「全抜き」をしてはいけない。


もともとの世界、それに気が付くことを示すのが、僧侶だ。気付きのことを説き、説く場所を提供しているのがお寺だ。お寺は、特別なことは必要でないことを示し、実践するところだ。


キリスト教でも、同じだ。「キリスト」とは「油を注がれし者」の意味で、誰もが、その世界に気が付き、目覚め、生まれ変わることが出来、生まれ変わってみれば、これまでと違って、油が注がれたようにイキイキとし、自由自在に、独立し、分け隔てなく通じ合い、分かり合い、深い愛を以て接することが出来、全ての人を受け止め、全ての出来事を受け止めることが出来る、そのような心を、等しく持っていて、「油を注がれた者」としての「キリスト」となる。それが、本来の「キリスト」の意味だ。「キリスト」は、一般名詞で、誰もが「キリスト」となる心を、本来、持っている。そこに、仲介業者は必要なく、「お金の全抜き」をしてはならない。そのような、もともと、誰もが持っている心のことを話す場所が「教会」で、そのようなお話をする人が「牧師」さんだ。


その、誰もが、等しく、能力に関係なく持っている心に気が付き、目覚めれば、いろんな束縛、壁、枠から、解き放たれ、自由になり、独立し、自立した人となる。誰もが、もともと、等しく持っている、この能力を「宗教心」というのだ。宗教とは、本来、そういうものだ。教祖に、従うものではない。出入りも自由。束縛無し。明るく、清らか、智慧があるので、迷信が無い。脅しも無い。恐怖心も、不安も、束縛も、解き放たれて、自立しているものだ。


だから、宗教を政治利用してはならない。政治として、利用する心は、人間の価値観だ。利用する自分勝手な人間的な心が、ひっくり返り、吹っ飛んで、壁が無くなり、誰もが通じ合い、尊重し合い、自由になり、独立して、イキイキと生きるのが、本来の宗教だ。


キング牧師も、ティクナットハンさんも、国連でそのような演説をした。


レナードジェイコブソンは

「仏教徒ではなく、仏陀となりなさい」

「キリスト教徒ではなく、キリストになりなさい」と、いつも言っている。


誰もが、「仏陀」となり、「キリスト」となる能力を与えられている。


「ニカイア公会議」で、採用されなかった福音書には、そのことが書かれている。


誰もが、キリストとなり、生まれ変わることが出来る。再誕出来る。


再誕すれば、油が注がれたように、イキイキと束縛なく、愛をも行って、敵対する者も受け入れることと成る。それは、無理して握手抱擁するのではない。為政者こそ、まず、目覚め、悟る必要がある。しかし、権力欲、金銭欲、名誉欲に溺れ、成功した人ほど、その自己満足が強いため、為政者自身にも具わっている宗教心に気が付くことが出来ない。貧しいものこそが幸いなのだ。失敗挫折したものが、目覚めやすいのだ。


権力欲、金銭欲、名誉欲、成功した自己満足を、浄土真宗では「金の鎖」「七宝の牢獄」という。金や七宝で出来ていても、鎖や牢獄である。人間の欲は、結局、牢獄の中で鎖に繋がれて、繋いでいる金の鎖を愛で、七宝の牢獄を自慢し、見せびらかしているようなものなのだ。


油が注がれたような人、目覚めた人の生き方はどうなのかと言えば、『法華經』の実践注釈書の一つである『摩訶止観』では、「木が燃えながら、周辺を照らしつつ進む」と説く。縁があれば、その都度、周囲を照らしつつ、自分自身が燃え進むのだそうだ。

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コメント


「かもちこちゃん」との初めての出会い。まだ、生後、3か月ほど。

​明源寺たぬき

「かもちこちゃん」。
この時、1歳3か月」

​「かもちこちゃんとお母さん。

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