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「宗教的良心」令和3年12月明源寺寺報『梵鐘』294号

  • kakiholoholo
  • 2021年12月23日
  • 読了時間: 4分

更新日:2021年12月26日

 最近、お寺を中心にした地域の活性化ということを芸工大の学生さんと一緒に取り組んでおります。お寺は、どうも敷居が高い気がするので、本来のあるべき姿とか、仏の教えの本質を説くことで、次第に田舎の地域だけではなく、人間社会全体の活性化や、個人一人一人がイキイキと、自分らしさに根差して自由に力強く生きることについての活動をしております。

 現在のほとんどのお寺に、自分の生活をすることを目的に仏の教えを利用しているような雰囲気を感じますし、お寺とは自分が生活するために存在するというものではないように思います。現在のお寺の、先ず自分の生活が第一で、次に仏の教えがあり、自分が生活するためにご門徒がいるみたいな考えはどうも本末転倒の気がします。確かに、お寺も生活していかなければなりませんが、本来ならば生活は二の次です。そのことを、比叡山を開いた伝教大師最澄は「道心の中に衣食あり」と説きました。つまり、仏の道を歩む心があれば、自然に着る物や食べることが付いて来るので心配はいらないという意味です。現代は自分の着る物や食べる物の心配が先になっているので、順序が逆です。お寺の維持管理のためにご門徒がいるのではなく、ご門徒のためにお寺が宗教活動を行うべきです。なぜこのようなことになったのかと言えば、①僧侶自身の動機が教えより生活に重点を置いているからと、②仏の教えがどういうものかが分かっていないこと、③口では立派なことを言いながら行いが宗教的ではないことに鈍感になっているからであります。しかし、お寺は立派な行いをすべきと言っているのではありません。人間として宿業を持つどうしようもない身であることを説くのが親鸞の教えであます。しかし、どうしようもないことを理由に、自分中心でも良いのだと、自己正当化し、開き直りのようになっています。本来、親鸞の言う「いずれの行もおよびがたき身」とか、善導の「自身はこれ罪悪生死の凡夫」という言葉は、教えに触れ、法そのものとなっている所からの言葉であり、自分の着る物や食べる物の心配して生きることが当然と言っているのではありません。凡夫とは、人間すべてが無明を構造として持っている意味であり、そこに自分の個人的主張を守る意味はありません。人類普遍の法からの意味と個人的生活関心レベルの区別はしっかりなさなければなりません。

 宗教者は言っていることと行っていることについての矛盾に対する宗教的良心の呵責に鈍感であってはならないと思います。矛盾に対する良心の呵責に鈍感である人間も認めているのが親鸞の教えであるというものではないのです。(しかし、結局の所、法としての普遍的境地である智慧と受容の観点から見れば、それも受け入れられます。)でも、そこに、あぐらをかいても何をしても良いとの意味ではありません。宗教的境地はとても微妙なことを説いております。煩悩はそのまま菩提となりますが、煩悩のままで良いという意味はありません。

 本来、他人を批判するために宗教があるのでも、自己正当化するために宗教があるのでもありません。常に「願わくは衆生と共に」の願いの精神を第一とし、衆生と共にあることで、本来あるべき自分であることができます。なぜ、「衆生と共に」なのかと言えば、衆生ひとりひとりと自分とは何の違いもなく、同じだからです。その「何の違いもなく、同じ」なのは、自分も含めて誰もが「自身はこれ罪悪生死の凡夫、常に沈み、常に流転して出離の縁なき身」だからです。自分だけが立派で、衆生を上から目線で教化するというものではありません。みんな同じように「本質的に無明である」ことを構造としているのであり、人間である限り「罪悪生死の凡夫」として、すぐに調子に乗り、自慢し、言い訳をし、自分を守ろうとするものなのです。指導者は、特別な能力があるのでもなく、自分だけが知っている、他の人に知識も能力はないというものではありません。同じだからこそ、悩んで苦しんでいる方に、そっと寄り添えるのです。

 明源寺は、苦しんでおられる人々にそっと寄り添うようなお寺を目指します。明源寺は、宗教難民が少しでもなくなることを願いとして活動しております。明源寺は仏教の本質を明らかにし、常に道を歩み続けます。宗教の純粋性とは言っていることとやっていることに矛盾が無いことだと思います。純粋性が無ければ仏教を初めとする宗教は宗教でなくなります。自己を正当化するために宗教を利用してはいけません。そうなっているのは、弱者に対しての痛みが分からず、宗教的良心の呵責に鈍感で、宗教における本質が明らかになっていないからです。                                 合掌


 
 
 

コメント


「かもちこちゃん」との初めての出会い。まだ、生後、3か月ほど。

​明源寺たぬき

「かもちこちゃん」。
この時、1歳3か月」

​「かもちこちゃんとお母さん。

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